
どこにもない街にある
どこにもない店での
物語である
どうかページをめくって欲しい
次の主人公は
あなたなのだから……
からんからん!
「いらっしゃいませ」
飼い犬を連れて店内に入ってきたその女性客に、私はふいに現実に引き戻された。
危なかった。条件反射とでも言うべき僥倖に、救われたようだ。
引き潮のように過去が遠ざかり、私は現実に戻ってくる。
どうやらまた、うちの従業員であるトコちゃんが言うところの[5番]の世界に入っていたらしい。
お客様に不快感を与えないように。自分の行先や居場所を番号で呼ぶのは、接客業の常ではあるけれど。ちなみに[5番]とは、休憩でもなくトイレでもなく。すなわち、妄想の世界。
夫である和宏がこの世界に存在しなくなってから、もう何年になるのだろう。
そんなことを考えていると、想い出と現実との境目が曖昧になってくる気がする。そう、今も。
私こと支倉有理が、このカフェ『アルフェリア』のオーナーになってからだから…。
「もう8年か、な…それとも」
「え?」
「いえ、なんでも」
声に出てしまっていたらしい。怪訝そうなその様子に、私は慌てて営業スマイルを顔に貼り付けた。
この道そろそろ15年。もうプロと呼んでも差し支えないだろう。
たとえそのほとんどが。スポンジのようにスカスカな日々であったとしても。だ。
「ご注文は何になさいますか?」
「そうねえ。チロちゃんには犬用チョコレイトケーキひとつと。あとわたしにはホットのオリジナルティ、もちろんミルクでね。今日は紅茶の気分だったから、いつもより早く来ちゃった」
「かしこまりました。チロちゃんにチョコケーキと、オリジナルホットミルクティですね」
いつもの席に落ち着いたなじみ客に、感謝の気持ちを込めた一礼をすると。まずは犬のための水を、ミルク色の陶製の皿に入れ床に置いた。むろん選び抜いたボーンチャイナ(ただし型落ちセール品)。なぜって?
ここでのルールのひとつは。1にわんちゃん、2に人間。
犬に限らず飼い主というものは、まず自分よりもペットが優先されることを喜ぶものらしい。まあこれはもうひとりの従業員である、アキちゃんの受け売りだけど。
美味しそうに水を飲むテリアと飼い主を横目で見やり、ひと仕事終えた気分で次の工程に取り掛かる。目を瞑っていても自然と体が動くルーチンワーク。
ケトルに水を入れ、火にかける。水道水?と思われるかもしれないが、酸素を程よく含んだ水は紅茶には必要不可欠。ボトルに入ったミネラルウオーターなど論外だ。それにこの街の水は、取り付けた浄水器など必要ないくらいに澄んでいて、美味しいのだし。
ああ。今日もいい天気。大きく刳りぬかれた店の窓からは、切り取られた真っ青な空と。満開の桜が。
まるで計算して描きこまれた絵画のように、きりりと澄んで目に映る。
私のいちばんだいすきな花
私のいちばんだいきらいな花
でも桜はいつも、咲いているだけ。
そう、あの日のように。
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